猫の一歩

Knowledge is power をめぐって
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/eigo44.html

「人生は真っ白の紙に自分の絵を描くことである」
文末にそう書かれていた。

学校のテストでいい点数をとっても、ほめられることはなかった。
逆に点数が悪くても、何も言われない。
そんな感じでもうずいぶん前から放っておかれていたんだし、もっと好きに生きてていいはず。
子供の頃からこんなにも自由だったじゃないか。
……なのに僕は、独りになっても見えない鎖を引きずっている。

いつから「自分の絵」を描くのを諦めてしまったのか。

猫をずっと室内飼いしていると、そのうち屋外を恐れるようになることがある。
長年にわたり行動範囲が部屋の中だけに限定される状態。
昔は何度も家の外へ出ようとしてたいそう叱られたことだろう。
首輪に紐までつけられたことさえあったかもしれない。
ある日猫を外へ出してもいいことになったのに、外の景色を見て怯えるだけで、猫は一向に部屋を出ようとしない。
もう、扉に鍵はかかっていないのに。
出て行っても、誰も叱らないのに。
首にかけられた紐も、とうの昔になくなっているのに。

ACってのはそれと大差ないと思う。
親の負担を減らそうと、極力問題は起こさないように、家族と距離を置いて。
まるでいない子、ロスト・ワンという配役に徹した僕。
反抗するより我侭言うより、おとなしくしているほうがずっと家庭は平和。
耳に栓をして、意識を現実と違うチャンネルにずらして、黙って部屋にこもっていたほうが面倒な喧嘩に巻き込まれずに済む。
やがて僕は手がかからない子とみなされ、放置は加速した。
そしてそのまま学生時代が過ぎていき、いざ、社会へ出てみると。
社会に適応できない、臆病な自分がいた。

我侭な人や不条理なことばかり強いる人に振り回され引き摺られているとき、辛く苦しいながらもどこか安堵してしまう自分がいるのは、きっとそれが関係しているのだろう。
とどのつまり、考えることの放棄。
黙って相手の言うことを聞いていたほうが、はるかに楽だから。

家の外ではどうだったのか。
自分の思うように振舞うとまわりに迷惑をかけると気づいた頃から、僕は小さなアクターになっていた。
誰かと一緒にいるとき、まわりの雰囲気から在るべき自分を判断し、手札の中から場に相応しいキャラクタを選んで、演じる。
昨日はヒーロー、今日はピエロ、家族の前では定番のロスト・ワン。
部屋に戻るとどっと疲れる。
本当の自分は、ごく限られた場所でだけ出していた。
ただそれも、歳を重ねるごとに、出せる場所がどんどん狭くなってきた。

自分がACだと気がつくことができたときから、僕は遅蒔きながらいろんなことにトライしている。
子供の頃なら難なく越えられたハードルは、器だけ大人になったいま、跨ぐことすら難しいものも少なくない。
トライしてもトライしても失敗ばかりで、正直結構辛い。
でも、描きかけのままになっている「自分の絵」をまた描きはじめられるように、いつかACを克服したい。
僕がどんなときもありのままの僕でいられる場所は、まだ見つかっていない。
見つけたと思ったら、すぐに失くしてしまう。
またこれからも探そうと思う。
いつか見つけられたら、きっと世界が違って見えてくるんじゃないかって。

勇気を出して、部屋の外へ足を踏み出した猫は。
空を、雲を、海を見て、何を思うだろうか。
見慣れた冷たい床や電灯の明かりではなく、初めて土に触れ、陽に当たり、何を感じるだろうか。
部屋の中では体験することもなかった雨風、顔を合わせることもなかった野良猫や向かいの家の番犬。
面白いことも楽しいこともあれば、苦しいことも辛いこともたくさんある外の世界。
怖くなって部屋に戻る?
それとも?

世の中、知らないほうがいいこともたくさんあるらしい。
知らぬが仏という言葉すらもあるけれど。
僕には知らないことがたくさんありすぎる。
生きてる限り、少しでも多くのことを知りたいと思う。
Knowledge is power.
僕が好きな言葉。

AC

Posted by CINDY